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カラブリア州にもあった、強制収容所

2016-06-13
DSC_0888.jpg


第二次世界大戦の時期にヨーロッパ各地に作られた強制収容所。
カラブリア州コゼンツァ県にはヨーロッパで最初にユダヤ人のために作られた収容所(Il campo di internamento di Ferramonti フェラモンティ収容所)がありました。

「強制収容所」のイメージとは少し趣の異なる収容所だったフェラモンティ収容所。
少し長いので興味のある方だけどうぞ。
(注・1940年以前にも収容所は各地にありましたが「ユダヤ人収容」を目的に建設されたのはフェラモンティが最初とされています)

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フェラモンティ収容所(Il campo di internamento di Ferramonti)は、当時思いっきりファシスト路線だったイタリアで、コゼンツァ県タルシア(Tarsia)市のクラーティ川沿いに1940年6月ごろから9月にかけて建設され、ユダヤ人をはじめ、東欧出身者や反社会分子とされた人たち、さらにイタリアが戦争突入当時にイタリアで就労していた中国人グループも収容されていました。

1943年9月の開放時点で2000人を超える収容者数はヨーロッパでも最大規模。
解放後も居住を望む人が多かったため、完全閉鎖されたのは1945年12月。
開放当事(1943年9月)は他地域で戦争が続いていたのと、収容所近隣住民との交流などによりこの地で新しい生活を築いた収容者たちが、外部に出たがらなかったのが完全閉鎖の遅れの原因とされています。
これにより、フェラモンティ収容所はヨーロッパで一番最後に閉鎖された収容所として歴史に名前を刻む事となりました。

川沿いのジメジメした場所に位置していた為マラリアが発生したものの、収容所内で非人道的行為や暴力は一切行われなかったとされています。(当時、現地住民もマラリアに悩まされていました)
監督する立場にある警察関係者、宗教関係者、さらに地元住民(主に農家)は、収容者たちと積極的に交流し、彼らの生活を手助けしていたという記録が残っています。

さらに、通過収容所(Durchgangslager)ではなかったためこの収容所からドイツ方面や他収容所に移送された者はおらず(つまり、ガス室に送られた人はおらず)、収容者たちはある一定の文化的水準を保った生活をしていた、とされています。(イタリア北部にあった収容所は通過収容所として機能。ドイツ方面に収容者が移送された、との記録が残っているとのこと)

ドイツからの収容所管理要請(ドイツ(ナチス)が定める収容所管理のルール)を一切無視した独自の収容所運営と収容者を取り巻く環境は、後にヨーロッパ近代史の権威Jonathan Steinberによって「ヨーロッパ一の偉大な集団」と呼ばれました。

収容者たちは、

・郵便の受け取り、外出などは基本的に自由(夜間外出許可は出にくかったようです)
・収容者子女は地元学校(特別学校ではない)へ登校。
・収容所内の自治。収容所内に独自の図書室や歌劇のオーガナイズなど
・収容所内に衛生拠点を設置。(周辺地域がマラリア発生源のため)
・地元住民、収容所監督者たちと「人間的な」(←現地資料をそのまま訳しました)交流

など、居住域は強制的に設置されているものの「強制収容所」の名前からイメージされる様子とだいぶ異なった生活を送っていたとされています。
さらに、死者はCosenza市(またはTarsia市)の墓地に埋葬され、Cosenza市に埋葬された21人については現在も全てのお墓が訪問可能。(←死者1人1人を「市民」として埋葬しています。Tarsiaの小さな墓地に埋葬された16人に関しては、現在4つのお墓のみが確認できているとのこと。)

私の義父は生前、コゼンツァ(Cosenza)市まで買い物に来ている収容者をよく見かけた、と話していました。「普通に買い物に来ていたなぁ」と。
収容所跡からコゼンツァまでは現在、高速道路を使って約40分の距離で、公共交通などを使って1日がかりでのお買い物/外出が可能だった事が伺えます。

コゼンツァ市民も収容者を普通の「客」として扱い、『収容者だから・・』といった差別や雰囲気は一切感じられなかったということ。
義父も「理不尽な目にあっている気の毒な人たち」とコゼンツァ市の皆が親切にしていた、との言葉を残しています。

DSC_0887.jpg


でも。
いくら「強制収容所」の言葉が持つイメージから離れた生活が保障されていたとしても、住み慣れた場所から強制的に連れて来られ、形式だけでも施設外に出るのに許可の要る不便な生活を強いられた人たちがかつてこの地にいたこと。
さらにこの地で亡くなった方たちもいたこと。
カラブリア州に住むものとして、正しく理解して伝える必要があると強く感じます。
そして、ドイツからの要請を無視して彼らを積極的に助ける文化的土壌がコゼンツァ市にはあったこと。
それを裏付ける、義父が残した言葉。
カラブリア州とコゼンツァの人たちを理解する上で、さらに今後もカラブリア州で生活していく上で必須な知識だと思います。


ferramonti.jpg
MuViFサイトより資料館内部の写真

現在、収容所跡地の一角に資料博物館が建設されています。
Tarsia市が共同管理し、資料を見ながら収容者たちの当時の生活をしのぶことができます。(要予約)

La Terra del Soleでは資料館のご予約を無料で承ります。
訪問に興味のある方は、こちらまでご相談/お問い合わせください。


収容所の様子・YouTube動画はこちら(静止画像です)をどうぞ
資料博物館、MuViF(Museo Virture Ferramonti)のHPはこちら


Special thanks.
今回、収容者遺族の方と資料館関係者のご好意で施設内見学と貴重なお話を伺うことができました。
ここで御礼申し上げます。
また、証言を残してくれた義父にも感謝を。
義父の言葉がなかったら、収容所の存在すら知らずに過ごしてしまっていたかもしれません。
そして、義父の話を聞いていた当事、イタリア語理解力が足りなくてあいまいだった私の知識を補完し、辛抱強く導いてくれた主人にも感謝します。

今後二度とこのような悲劇が起こらないように、祈りをこめて。

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